正説・芋掘り藤五郎


その昔、山科(寺町台地の西南端)の里に藤五郎という世捨て人が住んでいた。加賀の介藤原吉信公の子孫といわれたが、山芋を掘り、市にさばいて生計を立てていた。そのため人々から、芋掘り藤五郎と呼ばれていた。無欲で奢らなかったが、礼儀をわきまえた立派な人物であった。

ある日、和泉(今の奈良県)の初瀬という里から、観音様のお告げを受けたという信心深い娘が、多くの財宝を携えて藤五郎のもとに嫁いできたが、藤五郎はたちまち貧しい人々に、それらの財宝を分け与えてしまった。さらに妻の父方から贈られた一包の沙金も、田の雁に投げつけて家に帰ってきた。

驚く妻に、藤五郎は「沙金など芋を掘る山に、いくらでもある」と説明した。藤五郎が沙金を洗った沢は、それから「金洗いの沢」と呼ばれるようになった。

芋掘り藤五郎の伝説は加賀藩士の富田景周が文化2年(1805年)にまとめた「越登賀三州志」に金沢の名称由来として収録されている。これは金城霊沢の碑文が立てられたおよそ40年前である。現在まで金沢に伝わる昔話として、各種の出版物に収められているストーリーのほとんどは、この「越登賀三州志」をよりどころにしていると思われる。以上の文もその要約である。

芋掘り藤五郎の伝説は全国各地に伝わる長者物語のひとつの典型である「炭焼き長者」そのもので、特に大分県に伝わる「炭焼き小五郎」に細部まで酷似しているといわれる。異なるところは、職業が炭焼きでなく芋掘りだというところと、名前程度である。

芋掘り藤五郎の伝説を単なる「炭焼き長者」の変形、と片付けてしまうのは簡単である。しかしここではあくまで、伝説に隠された真実に迫りたい。

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