私の英語よもやま話
50歳からの英語奮戦記
Last update on Jan 25, 1998


あるアメリカ人との出会い
それは3年前の、平成7年1月のことだった。当時勤務を始めたばかりの専門学校の職員室にいたところ、一人のアメリカ人がやってきて「Happy new year!」とか挨拶した。ところがその部屋に5-6人の職員がいたにもかかわらず、誰も返事もしない。これが日本人相手なら大変失礼なところだった。もちろん外国人に対しても十分失礼なのだが、そのとき「これじゃ失礼だ」と思ったところが、その後英語にはまるきっかけとなった。彼はその学校で英会話の授業を担当している非常勤講師であり、私の担当クラスもご厄介になることになっていた。当然ある程度の事務的な連絡も必要なので、それから私の、冷や汗をかきながらの英語修行が始まったのである。

3年間で30人近い外国人との出会い
その後3年間で30人近く英語圏の外国人と出会った。そのうち金沢市内で直接会話した相手は既に20人ほどになっており、金沢も随分国際都市になったものだと思う。市民が参加できる国際交流のイベントも多く、ことさら留学などしなくても語学を磨くチャンスはある。街頭で外国人から声をかけられると逃げ出す人が多いが、少し外国人に対して積極的な気持を持つことだけで違ってくるのである。

辞書選び
手ごろな辞書探しが始めのころの大きな課題だった。結論から言えば、旺文社の「ハイトップ英和辞典」と「ハイトップ和英辞典」がキマりだ。文字が読みやすく、発音記号もカタカナ表記を併用していてわかりやすい。旺文社からはひとつランク上の「ニューサンライズ英和辞典」と「ニューサンライズ和英辞典」も購入したが、語彙が多いけれどもカタカナ表記が無いだけ読みにくく、ほとんど使っていない。これは高校生の息子専用になってしまった。辞典はこのほか同じ旺文社の「ハイトップ英和/和英辞典」を勤務先に常備している。
ところでカシオのEX-wordという電子辞書を買った。10000円くらいしたが、英和/和英がすぐ検索できるところがいい。情報量はあまり多くないが、「ハイトップ英和/和英」より多いので、持ち運びにはいいかもしれない。いくつかの定番会話メッセージがPCMで録音されているので、ひまついでに聞き流すことにも使える。ただし文例がまったく無いので、その点は困る。

日本人の英語が通じない理由
まず発音の悪さはよく言われるが、むしろアクセントとイントネーションだと思う。たとえばunderstandをンダースタンドと頭にアクセントをつけて話しても通じない。アンダースンドでなくちゃならない、というような具合だ。スペルだけで発音記号が一切書かれていない参考書は学校英語の延長でしかなく、実際にはほとんど役に立たない。それから流れるようなリズムが大事。アメリカのニュースキャスターのトークは、まるで心地よい音楽のようだ。

発音はLとRから
近ごろ英会話のコツを尋ねられるようになったが、発音に関してはLとRに尽きると思う。これがどれだけ大事かと言えば、英語にはやたらとRがあるということだ。Lはほとんど日本語のラ行の感覚でいいと思うが、Rがうまくできないと発音全体が幼稚に聞こえるのである。そのほかthとwh、そしてbとvあたりが使いこなせれば、まず70%は外国人に通じる。私の発音だが、長く合唱や声楽をやっていたせいか微妙な音のニュアンスには敏感なので、日本人としてはまあ上等なレベルなのではないかと思っている。TVキャスターの筑紫哲也なんか大したことないと思う。しかし発音技術と会話能力はイコールとはならない。相手の言っていることが聞き取れなければならないし、内容が伴わなければ意味がない。
ただし少し発音に自信があると困ることがある。それは相手から「この日本人は英語が十分できる」と誤解されて、機関銃のような早口でしゃべられてしまうことで、「お願い、もうちょっとゆっくり話してね」と返すこともしばしばである。

リスニングの訓練
始めのころはNHK教育テレビの「やさしい英会話」をよく見た。番組の中で演じられるミニドラマの会話が70%くらいは聞き取れたので、そこで自信を持ったことが大きい。さらにCD付きの参考書もいくつか買った。一番よかったのは西東社の「やさしい日常英会話」で、これは今でもときどき聞いている。本にはイントネーションがわかりやすく記号で表示されているので重宝している。同じCDつきでも、これくらい親切な参考書は他に見当たらないと思う。
発音の訓練は、とにかく聞いた通りに真似する。特にフレーズごとに流れるようなリズムをつかむことが大切である。ただ漫然と聞くだけでもリズム感は耳に残るものだ。だから物真似の得意な者は上達が速いはずである。

ヨーロッパ旅行
平成7年の12月、専門学校の研修旅行の引率でバルセロナとローマに10日間かけて出かけた。バルセロナでは英語はあまり使われておらず、スペイン語の「ポルファボル」(お願いしますの意)と「グラシアス」(ありがとうの意)だけで自由時間を過ごすことができた。このことから短期間の旅行ではほとんど語学の足しにはならないことがわかった。ただ訪問した提携校の学生ともう少し話せたらな、とは思った。
ローマでは怪しげな日本語を話す変なオジさんが多く閉口させられた。レストランのメニューがイタリア語と英語と日本語で書かれており、そういう所では安心して食事ができた。なお出発前にバルセロナとローマのWebページを探索したが、英語のページはほとんど見当たらなかった。わずか1週間程度の海外旅行の経験は直接英会話の上達につながらないが、もっと英語を身につけたいと思うきっかけにはなる。また外国人に「どこか外国へ行ったことがあるか」と聞かれることは多いので、やはり必要ではある。

ハワイ旅行
平成9年12月、専門学校の研修旅行で今度はハワイへ4泊5日の日程で出かけた。ハワイは観光地はどこへ行っても日本人だらけで、日本語を話すスタッフも多い。そのため英語を使うチャンスはむしろ少なく、語学研修にはいい所ではない。しかし、一歩観光地をはずれると、そこは紛れもなくアメリカで、要は過ごし方次第というわけだ。自由時間にインターネット仲間を訪問することにした。これがハワイで一番スリリングな時間だった。1時間程度かなり内容の濃い会話を楽しむことができたことが収穫で、これからはこのパターンの外国旅行がクセになりそうだ。
(写真はレス・マッカーターさんと筆者)


金沢の外国人たち
いくつかパターンがある。まず2年程度英語指導助手として公立学校に派遣されてくる若者たち。彼等の多くは、帰国後も金沢に帰ってきたいと言う。しかし単身で生活することは厳しい。わずか一部の運のよい者だけが市町村の国際交流担当職員に採用されているようだ。もっとも、その身分はたいてい不安定な臨時職員であることが多いが。
家族ごと比較的長期間滞在している外国人は、大学などで語学教授として招かれた人が多い。そのほか長期滞在者はたいていは貿易の仕事に関わっているようだ。英会話教室の講師を掛け持ちするくらいでは自活することは難しい。あと、日本人女性と結婚した男性。彼等は日本語は下手だ。家庭内では英語で済むし、かつ日常生活は妻が仕切っているから、あまり一般人と接しないので、ますます上達が遅れるというわけだ。反対に日本人の男性と結婚した女性は日本語が上手だ。買い物など日常生活で使わなければならないので、当然上達するわけだ。
金沢は全国的に見て、日本語教育のメッカらしい。東京より生活費が安上がりなので、1か月とか3か月とかの滞在者が多い。当然ホームステイの受け入れ家庭は年中募集という状態になっている。金沢にやってくる外国人の多くは日本語を学ぶことを目的にしている。決して彼等を手ごろな語学の実験台として扱ってはならない。ただ、お互いに日本語だけ英語だけでは窮屈なので、少しずつ歩み寄る、そういう気持が大切だと思う。私もケースバイケースで日本語をおり混ぜて彼等と話す。日本語で表現しにくいことが英語では簡単に表現できることもあり、その逆もある。要はどれだけ意思の疎通がスムーズにできるかということだと思う。
ところで金沢にいる留学生は中国を筆頭にアジアが圧倒的に多い。この問題については別のページを企画したい。

実用英語技能検定
通称「英検」、ここ数年は試験方法がより実用性の高いものになってきたと感じられたので、平成7年の10月に3級を受験した。周りは学生だらけでオジさんは私だけ。3級以上には面接試験があり、社会人の常識として最低ラインと思っての受験だった。70%程度の成績だったと思うが、合格。
それから2年後の平成9年10月に準2級に初挑戦。一次試験では解答をチェックする時間が無く、ほぼ合格をあきらめていたが、なぜか合格通知を受取り「ヤッホー!」。70点満点での合格ラインが37点という、意外な甘さに助けられたようだ。それでも筆者は合格者の平均点と同じ44点だったので、まずまずというところだったろうか。リスニングは試験会場の学校のスピーカーが聞きにくく閉口させられたが、質問スピーチ冒頭の5W1H「Who、When、Where、What、Why、How」を聞き逃さないようにだけ気をつけた。これで60%正解を獲得できた。二次試験もやっぱりオジサンは私だけという雰囲気。試験官は私より若い男性(おそらくどこかの学校の英語の先生というタイプ)だった。フリートーキングはリラックスして喋れた。そして12月16日、合格通知を受け取った。
一般には検定無用論(とにかく話せればいいという考え方)もあるが、今の英検は英語力の公平な判定方法として、なかなか有効ではないかと思う。少なくとも英語の上達を自分で確認できる目安にはなる。

間違いだらけの英語教育
受験英語が全てをゆがめているのではないか。受験のためだから点数で評価しやすい試験形式になり、無味乾燥な詰め込みイングリッシュになってしまっていると思う。報道によれば英語を入試科目から除外する大学が増えそうだという。それで全体の英語力が落ちるとしても、もともとその程度なのであるから気にすることもなかろう。本当に必要に迫られて、それではじめて身につくものだと思う。かつて高校時代、英語でクラス最低点を取ったことがあるが、そのときの先生が私のこのページを読んだら、ひっくり返ることだろう。
特に高校の英語は難し過ぎる。古い英文学作品からの引用文なぞから、重箱の隅をつつくようなやりかたで試験して、一体何になるのか。単に点数に差をつけるだけのための、いじわる問題としか思えない。 もっともこれは英語教育だけの問題ではない。実は国語(日本語)教育も、まったく同じ問題を抱えている。学校の授業を覗いて見ると、文学作品の解釈に多くの時間が割かれ、「読み、書く、話す」のうち、「話す」訓練が小学校からほとんど行われていないのである。日本語で話し合う、議論し合うという訓練が十分できていなくて、いきなり外国語で外国人と話し合えるわけがない。

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